紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2021-04-17から1日間の記事一覧

なんじゃもんじゃの杜

案内板 「 なんじゃもんじゃの杜・本名をひとつばたごといい、 古世代の依存木である。 ・五月中旬頃の開花で、満開時は 樹上が真白になり雪積もった ような景観を醸す。 ・この杜は昭和五十一年落合老人 クラブが植樹したものである。 落合まちづくり推進協…

中山道 中津川市内の中山道 歴史の道整備事業

中山道 中津川市内の中山道 歴史の道整備事業 案内板 「 中山道 中山道は江戸幕府が管轄する基幹道路であった五街道の一つであり、東海道と共に江戸と京都・大阪を結ぶ最も重要な道路で、 その距離は江戸の日本橋から京都三条大橋まで、百三十五里二十四町八…

落合石畳遊歩道

案内板 「 落合石畳遊歩道(全長120m) 平成17年2月、当市は恵北地区6町村と長野県山口村との越県合併により、新中津川市として誕生し、中山道の宿場も中津川宿、落合宿、馬籠宿の三宿場となりました。 この場所から、旧長野県境までの約120m 間を合併記念事業…

新茶屋の一里塚跡

新茶屋の一里塚 案内板 「 歴史の道 中山道 新茶屋の一里塚 一里塚 とは慶長九年(1604)二月、徳川秀忠 が諸街道を改修する際、日本橋を起点に東海道・中山道・甲州道中 などの各街道の一里ごと(約三・九km)に築かせた塚のことです。 これは街道の左右に…

新茶屋前の案内板

案内板 「 新茶屋 この辺りの地名を『新茶屋』という。江戸のころ宿場と宿場の間にある茶屋を『立場茶屋』といった。かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百メートルほど入った場所にあったが、江戸の終わりころに現在地に移った。そのためここを新茶屋と呼…

新茶屋

案内板の一部 「 新茶屋 この辺りの地名を『新茶屋』という。江戸のころ宿場と宿場の間にある茶屋を『立場茶屋』といった。かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百メートルほど入った場所にあったが、江戸の終わりころに現在地に移った。そのためここを新茶…

正岡子規句碑

正岡子規句碑 馬籠観光協会オフィシャルサイトより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓正岡子規句碑と夕陽の丘(サンセット100選)「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな 」子規 正岡子規(1867-1902)は明治期の俳人・歌人。本名は常規、松山の出身。明治26年東京大学を中退後俳句革新を…

馬籠城跡

馬籠城跡 案内板 「 馬籠城跡 この辺りの地名を『丸山』とも『城山』ともいい、ここには今から五百年前の室町時代から『馬籠城(砦)』があったことが記されている。 戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣…

馬籠宿 清水屋資料館

清水屋資料館 案内板 「 木曽馬籠 清水屋資料館清水屋は島崎藤村の作品『嵐』に出てくる『森さん』(原一平)の家です。この清水屋には、藤村の書簡、掛軸、写眞などをはじめ江戸時代に宿場として栄えたころより文書、書画(尾形光琳、土佐光則、富岡鉄斎)、久…

馬籠宿本陣跡 島崎藤村記念館

馬籠宿本陣跡 島崎藤村記念館 馬籠宿のオフィシャルサイトより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓藤村記念館 資料館昭和 22年2月17日の藤村誕生日に馬籠の壮青年を中心とした同志の人々が菊地重三郎氏を核にふるさと友の会を結成。同年11月15日この人たちにより落成式。数…

馬籠宿 大黒屋

大黒屋 gifureki.comより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓大黒屋(馬籠宿)概要: 大黒屋は岐阜県中津川市馬籠に位置しています。大黒屋は造り酒屋を営んでいた家柄で、馬籠宿の問屋や年寄役なども勤めていました。島崎藤村の生家である馬籠宿本陣島崎家とも関係が深く、本陣最後…

木曽の五木

案内板 「 木曽の五木(ごぼく)宝永五年(一七〇八)五月、尾張藩は木蘇の住民たちがひのき・さわら・こうやまき・あすなろ・ねずこの五種類の木を伐採することを禁じ掟を破る者は死罪にした。 『木一本首一つ、枝を落せば腕を斬る』として怖れられると供に、山…

馬籠宿 山口誓子句碑

山口誓子の句碑 馬籠観光協会オフィシャルサイトより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓馬籠のほば中央にある馬籠脇本陣史料館の前に、山口誓子の“荷道の坂に熟柿灯を点す 誓子”の句碑がある。誓子は生前馬籠をこよなく愛し、しばしば奥さんの波津女さんと共に馬籠を来訪し多くの作…

馬籠宿 歌の好きな石臼

案内板 「 歌の好きな石臼 藤村童話『ふるさと』より 石臼くらゐ唄の好きなものは有りません。石臼くらゐ、又、居眠りの好きなものも有りません。 冬の夜長に、粉挽き唄の一つも歌ってやって御覧なさい。唄の好きな石臼は夢中になって、いくら挽いても草臥れ…

すんき蕎麦

すんきそば JAPAN WEB MAGAZINEより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓乳酸発酵のお漬物が入ったお蕎麦 中山道の通る木曽地方に古くから伝わる漬物が「すんき漬」。地元では「スンキ菜」とも呼ばれるカブ菜(赤カブ)の葉を塩を使わずに乳酸発酵させた、日本の伝統的発酵食品の中で…

馬籠峠

馬籠峠 wikipediaより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓馬籠峠(まごめとうげ)は、長野県木曽郡南木曽町と岐阜県中津川市の境にある旧中山道の峠。標高801m。妻籠宿と馬籠宿の両宿の間にあり、中山道の宿場町の中でも史蹟として保存状態の良い両宿を含めて観光地として訪れる人も…

一石栃立場茶屋跡

案内板 「 立場茶屋立場茶屋は宿と宿の中間にあって、旅人に休息と利便を与えた。一石栃(いっこくとち)は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は七軒ほどの家があって栄えていたが、今ではこの牧野家住宅一軒だけになっている。 牧野家住宅は江戸時代後期の建…

一石栃(いちこくとち)白木改番所跡

一石栃(いちこくとち)白木改番所跡「ぶらり南木曽」より↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓最初下り谷に設置された妻籠宿の白木改しらきあらため(木材・木工品などの出荷取締り)番所は、後に馬籠峠に近いここ一石栃いちこくとちに移され、明治2年まで、木曽五木(ひのき・さわら…

さわら・かもいぎ

案内板 「 さわら(椹)大樹 樹齢 約三〇〇年 胴廻り 五・五米 樹高 四一米 材積 三四立方米椹材は耐水性が強く、風呂桶や壁板、建具等に多く使われますこの木一本で約三〇〇個の風呂桶を作ることができます。かもいぎ(神居木) この椹の下枝が立ち上がって…

かもいぎ案内板

案内板 「 かもいぎ(神居木)この椹の下枝が立ち上がって特異な枝ぶりとなっていますが、このような形に似ていることから枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)と行きます。 昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所であると信じられていました。 傷つけ…

国史跡中山道

案内板 「 国史跡『中山道』南木曽町を南北に貫く中山道 は、その大部分が昭和六十二年十月三日に『国史跡』に指定されました。中でもこの付近は中山道の形状がよく残っている所ですが、主要地方道中津川南木曽線の拡張工事に伴い、一部を施工範囲に含めざる…

男埵(おたる)の国有林

男埵の国有林 案内板 「 男埵(おたる)の国有林 State Forest in Otaru中山道 の東側一帯は、木曽森林管理署南木曽支署管内の南蘭国有林である。国有林には大木が多いが、この中山道沿いの男埵山一帯は風致保護林 に指定され、檜をはじめ、椹・明檜・高野槇・…

男滝、女滝

男滝 女滝 案内板 「 男滝女滝(町名勝) Odakimedaki Waterfalls (Male Waterfall and Female Waterfall)この滝は、木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所としてしたしまれ、憩いの場であった。滝及び滝壺は、洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているが、…

倉科祖霊社縁起

案内板 「 倉科祖霊社縁起 倉科左衛門尉時元は、松本平の豪族で、はじめ武田信玄に仕え、川中島合戦のとき、武田の兵糧と財政を受け持ったほどの勇士であったが、信玄亡き後は松本城主小笠原貞慶の愛顧を受け、重臣としての面目をほどこしました。 天正十四…

倉科祖霊社

倉科祖霊社 「 倉科祖霊社 Kurashina Soreisyaここには、松本城主小笠原貞慶 の重臣倉科七郎左衛門朝軌 の霊が祭られている。伝説では、七郎左衛門は京都へ宝競べに行く途中、この地で盗賊のために殺されたとされているが、史実は次のようである。七郎左衛門…

大妻籠 庚申塚

案内板 「 庚申碑について Koshin stone monument庚申の日は六十日後とに巡り、年に六日あります。 この日の夜に人々が集まり、徹夜で念仏を唱えたり世間話をして、朝に解散する風習がありました。これは人の体内に「三尸の虫」という霊虫が住み、人々が寝静…

県宝藤原家住宅

案内板 「 県宝藤原家住宅 Nagano prf. Tresure The House of Fujiwaraaこの坂(左右どちらの道でも行ける)を登った上平に、県宝藤原家住宅がある。この住宅は改造が大であったが、当初部分は県内民家で最も古いクラスで、建築年次は、間取り・構造・仕上が…

大妻籠

大妻籠 matinami.o.oo7.jpより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓南木曽町大妻籠の町並 大妻籠大妻籠の町並 南木曽町吾妻には国の重要伝統的建造物群保存地区の妻籠宿や中山道沿いの大妻籠集落も含まれる。大妻籠を訪ねたのだが、本卯建と出梁造りの民家が連なった小さな集落であっ…

走しば邑道標

走しば邑道標案内板 「 石柱道標(町史跡)明治二十五年に賤母(しずも)新道が開通するまで、馬籠〜妻籠〜三留野(みどの)を通る中山道は、古くから幹線道路として重要な役割を果していた。ことに妻籠の橋場は、『追分』とも呼ばれ、中山道と飯田街道の分岐点と…