紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

犬追物跡 犬追馬場略図

 

案内板
「 近衛帝の久寿年中、勅を奉じて三浦介義明・千葉介常胤(つねたね)・上総介広常が、玉藻前が狐に化けて逃げて那須野に隠れ棲んでいるのを退治するために犬を狐に見たてゝ追い射る武技を行った跡という。俗に『犬追物跡(いぬおふもののあと)』または『犬射築地(けんしゃのついぢ)』の名があり、側に『犬追馬場跡』とか『犬射馬場(けんしゃのばば)』と称せられているところがある。
 松尾芭蕉は元禄二年四月十二日(陽暦五月三十日 一六八九年)浄法寺桃雪の案内で『犬追物跡』を一見した。おそらく、犬追物の史話より謡曲殺生石』に興味を覚えたからであろう。
 曲によれば『三浦の介・上総の介両人に綸旨(りんじ)をなされつゝ、那須野の化生(けしょう)の者を退治せよとの勅を受けて、野干(やかん)は犬に似たれば犬にて稽古、あるべしとて、百日犬をぞ射たりける。これ、犬追物の始めとかや。』とある。    」


野干(やかん)とは Wikipediaより

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野干(やかん)とは漢訳仏典に登場する野獣。 射干(じゃかん、しゃかん、やかん)、豻(がん、かん)、野犴(やかん:犴は野生の犬のような類の動物、キツネやジャッカルなども宛てられる)とも。 狡猾な獣として描かれる。 中国では狐に似た正体不明の獣とされるが、日本では狐の異名として用いられることが多い。

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綸旨(りんじ)とは、
天皇の仰せを受けて蔵人所(くろうどどころ)から出した文書(もんじょ)。」

 

 

芭蕉の館 もう一つの碑

 

那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に雨降り日暮る。農夫一家に一夜を借りて明ればまた野中を行。そのに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、農夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道踏みたがえん、あやしう侍れば、此馬のとどまる所にて馬を返し給へとかし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、 

 かさねとは八重撫子の名成べし 
                曽良 


頓て(やがて)人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。

         松尾芭蕉
          「おくのほそ道」より

 

 

 

 

芭蕉の館 芭蕉と曽良像の後ろの碑

 

那須の黒羽という所に知人あれば」とて松尾芭蕉は「おくの細道」行脚の途次黒羽を訪れた。元禄二年四月三日のことである。途中那須野路にさしかかった折、草刈る男の馬を借りた。その跡慕う小姫を曽良は-かさねとは八重撫子の名成るべし-と呼んでいる。
翁は浄法寺図書、鹿子畑翠桃兄弟の厚遇を受け、十三泊十四日の長期逗留の間に、郊外に逍遥しては歴史・傳統の地を訪ね寺社に詣でて句を残し、あるいは地元の俳人たちと歌仙の興行があるなどして、心楽しい日々を過ごした。そうして黒羽を立った日に
- 野を横に 馬牽むけよ ほととぎす -の馬上吟があった。これらのことにちなみ、ここに馬上姿の芭蕉翁と曽良の像を建立し、千歳お形見として敬仰する者である。
     平成元年十月二十一日 
       黒羽町 芭蕉像をつくる会 」

 

 

 

芭蕉の館 入口の石碑

石碑の内容

「 黒羽の舘代淨法寺何がしの方に音信る。思いかけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。與市扇の的を射し時、別してハ我國氏神正八まんとちかひしも、此神社にて侍と聞バ、感應殊しきりに覚えらる。暮れバ桃翠宅に帰る。修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。

  夏山に足駄を拝む首途哉   」

 

 

 

 

 

雲巌寺 芭蕉の里 案内板

 

 

案内板
松尾芭蕉は元禄二年四月五日(陽暦五月二十三日 一六八九年)に雲巌寺にある仏頂和尚の山居の跡をみようと、人々をいざない山道を賑やかにうち興じ、遠近の景を賞でながら山門をくぐった。
『おくのほそ道』に『かの跡はいづくのほどにやと後の山によぢのぼれば石上(せきしゃう)の小庵(せうあん)岩窟にむすびかけたり。妙禅師(めうぜんじ)の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。

  木啄(きつつき)も庵(いほ)は破らず夏木立

と、とりあへぬ一句を柱に残侍(のこしはべり)し』とある。

 仏頂和尚は、常陸国鹿島根本寺の住職で、鹿島神宮との寺領争いを提訴のために江戸深川の臨川庵に滞在していた。芭蕉はこの時に仏頂和尚との交渉を持ったという。また参禅の師ともいう。和尚の山居の歌に『たて横の五尺にたらぬ草の庵(いほ)むすぶもくやしあめなかりせば』があり、芭蕉が山居の跡をみようとしたいわれの歌でもある。
 芭蕉は、樹下石上の小庵をなつかしみつつ、さすがの木啄も、この高徳な仏頂和尚の庵だけは破らぬという礼讚(らいさん)の歌を柱に残して惜別した。

  芭蕉の里 くろばね       」

 

 

 

 


 

雲巌寺 石碑

 

「  当国雲岸(岩)寺のおくに、佛頂和尚山居跡有。
- たて横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし 雨なかりせば -
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝむで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼麓に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遙に、松杉黒く苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上(せきじょう)の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室(せきしつ)をみるがごとし。
- 木啄も庵はやぶらず夏木立 - と、とりあえぬ一句を柱に残侍し。

        松尾芭蕉
         『おくのほそ道』より 」

 

  

 

芭蕉の道 案内板

 

案内板
「 松尾芭蕉曽良は、元禄二年四月(陽暦五月二十二日 一六八九年)に浄法寺図書(俳号桃雪)に招かれた。『おくのほそ道』によれば『浄法寺館代浄法寺何がしの方に音信る(おとづる)。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて云々』とある。一族をあげて歓待したのでずい分居心地がよかったのであろうか、黒羽で十三泊、あしかけ十四日の長逗留であった。わけても桃雪邸に八泊した。
 芭蕉は桃雪のため次のような挨拶の句を詠んだ。
 曽良の『俳諧書留』に
 『秋鴉(しゅうあ)主人の佳景に対す
  山も庭にうごきいるゝや夏ざしき

 浄法寺図書何がしは、那須の郡みたちをものし預かり侍(はべ)りて、其私の住ける方もつきづきしういやしからず。
 地は山の頂きにさゝへて、亭は東南のむかひて立てり。
 奇峰乱山形をあらそひ、一髪寸碧(いっぱつすんぺき)絵にかきたるやうになん。水の音 鳥の声、松杉(しょうさん)のみどりも こまやかに、美景たくみを尽す。造化の功(いさお)のおほひなる事、またたのしからずや』
 とある。桃雪主人の開け放した夏座敷に坐して、遠くの山や前の庭の佳景に対していると、山も庭も青々としてそよぎ、さながらこの座敷に入り込んでくるやうな躍動した空気が感じられる との意であろう。

   芭蕉の里 くろばね     」

 

 

 

 

俳聖松尾芭蕉と黒羽

 

案内板
「  俳聖松尾芭蕉と黒羽

 元禄2年(1689年)に江戸を発った俳聖松尾芭蕉は、門人の曽良とともに『奥の細道』行脚の途中、黒羽の地を訪れ、旅程中もっとも長い14日間逗留し、知人や史跡を訪ね、つぎにむかう『みちのく』への準備期間をここで過ごした。宿泊先は、江戸において門人となっていた黒羽藩城代家老浄法寺高勝(桃雪)邸とその弟鹿子畑豊明(翠桃)邸であった。
 桃雪邸は黒羽城の三の丸にあった。黒羽城は南北約1.5キロ、東西約250メートルという県北最大規模の山城で、黒羽藩主大関氏の本拠であった。
 芭蕉は黒羽滞在中、桃雪邸に8泊している。その間、4月5日(陽暦5月23日)には雲巌寺に足をのばし、参禅の師、仏頂禅師の山居跡を訪れ、4月9日(陽暦5月27日)には余瀬の光明寺(修験道の寺院、明治初年に廃寺)を訪れた。芭蕉曽良は黒羽滞在中に多くの句を詠んでおり、各所に句碑が建てられている。
 現在でもこの地区の道路は、芭蕉が訪れた当時の面影を深く残しており、往時俳聖が辿った足跡を訪ねることができる地である。 」

 

 

 

 

黒羽 常念寺 案内板

 

常念寺山門手前左側の案内板

松尾芭蕉は元禄二年四月十六日(陽暦六月三日一六八九年)に余瀬をたって殺生石に向った。曽良の『旅日記』には、「十六日天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及 昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。云々」とある。『おくの細道』には「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望待るものかなと、

「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」とある。

 この句は、余瀬を立って野間までの間で、馬子に乞われて詠まれたものであろう。夏草が茂った広漠たる那須野が原を、馬上姿で行く芭蕉が想像される
 特に「馬牽むけよ」の馬子への呼びかけの言葉が、ほとゝぎすの鳴声と合って一層の俳味が感じられる。
 この句碑は伝浄法寺桃雪建立であるが、年代、筆者は不詳である

      芭蕉の里 くろばね」

 

 

鹿子畑翠桃邸跡の歌仙

 

 「奈須余瀬 翠桃を尋ねて」

発句 秣おふ人を枝折の夏野哉     芭蕉

脇句 青き覆盆子(を)こぼす椎の葉  翠桃

第三 村雨に市のかりやを吹とりて   曾良

四  町中を行川音の月       はせを

五  箸鷹を手に居ながら夕涼     翠挑

六  秋草ゑがく帷子はたそ      ソラ

七  ものいへば扇子に貌をかくされて はせを

八  寝みだす髪のつらき乗合     翅輪

九  尋ルに火を焼付る家もなし    曾良

十  盗人こはき廿六の里       翠挑

十一 松の根に笈をならべて年とらん  はせを

十二 雪かきわけて連歌始る      翠挑

十三 名どころのおかしき小野ゝ炭俵  翅輪             (陸奥鵆・むつちどり)

十四 碪うたるゝ尼達の家       曾良

十五 あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ  翠挑

十六 露とも消ね胸のいたきに      翁  
十七 錦繍に時めく花の憎かりし    曾良

十八 をのが羽に乗蝶の小車      翠挑

十九 日がささす子ども誘て春の庭   翅輪

二十 ころもを捨てかろき世の中    桃里

二一 酒呑ば谷の朽木も仏也       翁

二二 狩人かへる岨の松明       曾良

二三 落武者の明日の道問草枕     翠挑

二四 森の透間に千木の片そぎ     翅輪

二五 日中の鐘つく比に成にけり    桃里

二六 一釜の茶もかすり終ぬ      曾良

二七 乞食ともしらで憂世の物語    翅輪

二八 洞の地蔵にこもる有明      翠挑

二九 蔦の葉は猿の泪や染つらん     翁

三十 流人柴刈秋風の音        桃里

三一 今日も又朝日を拝む岩の上     蕉

三二 米とぎ散す瀧の白浪       二寸

三三 籏の手の雲かと見えて翻り    曾良

三四 奥の風雅をものに書つく     翅輪

三五 珍しき行脚を花に留置て     秋鴉

挙句 彌生暮ける春の晦日       桃里

            『曾良俳諧書留』

 

 

 

 

 

 

松尾芭蕉と余瀬地区

 

案内板
「 松尾芭蕉と余瀬地区

 元禄二年(1689)に江戸を発った俳聖松尾芭蕉は、弟子の曽良とともに『おくのほそ道』の旅の途中、黒羽の地を訪れた。ここ旅程最も長い14日間滞在し、知人や多くの史跡を訪ね、次に向かう「みちのく」の地への準備期間として過ごした。宿泊先は、江戸において芭蕉の門人であった黒羽藩城代家老浄法寺高勝(じょうほうじたかかつ)(号・桃雪)宅と、その弟鹿子畑豊明(かのこはたとよあき)(号・翠桃)宅であった。
 翠桃宅のあった余瀬地区は、古代、全国に設置された七道(しちどう)のひとつ『東山道』(後に関街道、秀衡街道とも呼ばれた)が通り、その宿駅『粟野宿』として栄えた。室町から戦国時代にかけては、大関氏(後の黒羽藩主)の居城『白幡城』があり、交通・軍事の要衝の地でもあった。
 芭蕉は翠桃宅に5泊滞在する中で、歌仙の興業を行ったり、ここを起点に犬追物の跡や、篠原にある玉藻の前の古墳、金丸(かなまる)の八幡宮(現在の那須神社)などを訪れたりして、多くの句を残している。
 現在でも道路の方向や経路は、芭蕉が尋ねた同時の状況とほぼ変わらない面影を残しながら、南は大田原、佐久山に通じ、北は次に向かった那須や白河へと通じており、往時俳聖がたどった跡を訪ねることのできる地である。」

 

 

 

 

那須神社(金丸八幡宮)

 

 

那須神社 大田原市観光協会ホームページより

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仁徳天皇(313~399年)時代の創立で、さらに延暦年中(782~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられています。
その後、那須氏の崇敬篤く、那須氏没落の後は黒羽(くろばね)城主大関氏の氏神としてあがめられ、天正5年(1577年)には大関氏によって本殿・拝殿・楼門(写真)が再興されたと社記は伝えています。
社宝には、那須与一が奉納したといわれる太刀や寛永19年(1642年)の建立と推測される楼門などがあり、春と秋の例大祭に奉納される永代々神楽、獅子舞、流鏑馬の行事なども有名です。那須神社の獅子舞の起源はさだかではありませんが、大関増清が応永年間(西暦1394年~西暦1428年)に、余瀬に白旗城築城の際、地鎮として舞われたものであると伝えられています。
金丸八幡宮(現那須神社)は、黒羽(くろばね)藩主大関氏累代の崇敬の的であり、9月15日の例大祭には城主みずから参拝し、舞を鑑賞したといわれております。

流鏑馬:文治元年(西暦1185年)那須与一屋島での戦功により那須の総領になるや、同3年(西暦1187年)土佐杉をもって社殿を再建し、社領を寄進しました。わけても陰暦8月15日の例大祭は壮厳で、京都から神職伶人を呼び、舞楽の奉納や、流鏑馬の騎式などを行い終日神意をなぐさめたと伝えられています。流鏑馬は、今も古式ゆかしく行われています。
那須与一が源平屋島の戦いで扇の的を弓矢で射落とす際、「南無八幡大菩薩・・・」と、心に念じた神社とも伝えられています。本殿全体の彫刻や彩色、楼門全体を彩る装飾などは独創的で、「中世と近世の特徴を併せ持つ神社建築」として高い評価を得ています。


平成26年3月18日に本殿と楼門が国重要文化財に指定され、更におくのほそ道風景地名勝にも指定されました。
松尾芭蕉は元禄二年(1689年)、古歌の名所、由緒・来歴の地を訪ねて江戸から美濃大垣まで、みちのく・北陸路を旅し、紀行文学の傑作である「おくのほそ道」を完成させました。芭蕉とその弟子の曾良が作品に書き留めた風景は、近世以降人々の風景観に影響を与え続け、今なお往事の雰囲気と遺風を伝える一体の風致景観を誇っています。
「おくのほそ道」と「曾良旅日記」に記載のある風景地のなかで、風致景観や遺存状況が良好な地点がおくのほそ道の風景地として一連で名勝に指定されています。八幡宮那須神社境内)は、黒羽滞在時に故事来歴の地を訪れたうちの一つで、寛永年間に建造された本殿や楼門などの社殿があり、参道の両脇には杉並木が続いています。

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沢の馬市碑

沢の馬市碑 案内板
「   沢の馬市碑

この地域は、箒川沿岸の採草地に恵まれ、 村の共有地の草刈 劇場もあって、馬産地としての先駆者も居たところであった。 東北線が開通した翌年の明治20年、当地方で有名な伯楽、 中 村の村上喜平氏福島県の泉撰右エ門氏は、関東に馬市を開 設したいと考え、 沢村の人々と話し合い、 馬市を開いた。 馬市は、毎年3月・8月・12月とし、 それぞれ7日間定期的に開き、 馬宿も13軒を数え、南部駒・三春駒・那須駒など、全国から集 まる馬主・博労や客で賑わい、 矢板・大田原方面の商人の出店も 出て盛況であった。
 馬宿では、親類や知人の応援を得て客の接待・馬の世話などに当たり、近隣の農家では馬糧の供給と馬屋から出る堆肥を集めるなど、沢地区だけでなく近隣地区にまで、馬市の恩恵は及んだ。
 この馬市も、戦争が激しくなるにつれて、物資が不足し、馬の集散も少なくなったので、昭和18年には閉鎖になってしまった。
 ここに建つ勝善神・生駒神碑などは、馬市開設の記念碑であり、往時の賑わいを偲ぶ歴史の碑である。  」

 

 

 

「平家物語」扇の的原文と現代語訳

 

平家物語「扇の的」の原文】

ころは二月十八日の酉の刻ばかりの事なるに、折節北風激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。
舟は、揺り上げ揺り据ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。
沖には平家、舟を一面に並べて見物す。
陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。
いづれいづれも晴れならずといふ事ぞなき。
与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光の権現(ごんげん)、宇都宮、那須の湯泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。
これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度(ふたたび)面(おもて)を向かふべからず。
今一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢外させ給ふな。」
と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。
小兵(こひょう)といふ条、十二束三伏(じゅうにそくみつぶせ)、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要際(かなめぎわ)一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる。
かぶらは海に入りければ、扇は空へぞ上がりける。
しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一揉み二揉み揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。
夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたを叩いて感じたり。
陸には源氏、えびらを叩いてどよめきけり。
あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男の、黒革をどしの鎧着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持ったるが、扇立てたりける所に立つて舞ひ締めたり。
伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄つて、
「御定(ごじょう)であるぞ、つかまつれ。」
と言ひければ、今度は中差取つてうちくはせ、よつぴいて、しや頸(くび)の骨をひやうふつと射て、舟底へ逆さまに射倒す。
平家の方には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。
「あ、射たり。」
と言ふ人もあり、また、
「情けなし。」
と言ふ者もあり。

 

平家物語「扇の的」の現代語訳】

時は二月十八日、午後六時頃のことであったが、折から北風が激しく吹いて、岸を打つ波も高かった。
舟は、揺り上げられ揺り落とされ上下に漂っているので、竿頭(かんとう)の扇もそれにつれて揺れ動き、しばらくも静止していない。
沖には平家が、海上一面に舟を並べて見物している。
陸では源氏が、馬のくつわを連ねてこれを見守っている。
どちらを見ても、まことに晴れがましい情景である。
与一は目を閉じて、
「南無八幡大菩薩、我が故郷の神々の、日光の権現、宇都宮大明神、那須の湯泉大明神、願わくは、あの扇の真ん中を射させたまえ。
これを射損じれば、弓を折り、腹をかき切って、再び人にまみえる心はありませぬ。
いま一度本国へ帰そうとおぼしめされるならば、この矢を外させたもうな。」
と念じながら、目をかっと見開いて見ると、うれしや風も少し収まり、的の扇も静まって射やすくなっていた。

与一は、かぶら弓を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。
小兵とはいいながら、矢は十二束三伏で、弓は強い、かぶら矢は、浦一帯に鳴り響くほど長いうなりを立てて、あやまたず扇の要から一寸ほど離れた所をひいてふっと射切った。
かぶら矢は飛んで海へ落ち、扇は空へを舞い上がった。
しばしの間空に舞っていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散り落ちた。
夕日に輝く白い波の上に、金の日輪を描いた真っ赤な扇が漂って、浮きつ沈みつ揺れているのを、沖では平家が、舟端をたたいて感嘆し、陸では源氏が、えびらをたたいてはやし立てた。

あまりのおもしろさに、感に堪えなかったのであろう、舟の中から、年の頃五十歳ばかり、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持った男が、扇の立ててあった所に立って舞を舞った。
そのとき、伊勢三郎義盛が、那須与一の後ろへ馬を歩ませてきて、
「御定であるぞ、射よ。」
と命じたので、今度は中差を取ってしっかりと弓につがえ、十分に引き絞って、男の頸の骨をひょうふっと射て、舟底へ真っ逆さまに射倒した。
平家方は静まりかえって音もしない。
源氏方は今度もえびらをたたいてどっと歓声を上げた。
「ああ、よく射た。」
と言う人もあり、また、
「心ないことを。」
と言う者もあった。

 

 

一日一句 177

2023年5月

5/1
オフ日には映画にスパに五月一日

5/2
仕事終へ回転寿司へ五月二日

5/3
朝仕事午後は映画憲法記念日

5/4
薫風や美容院帰りの襟足に

5/5
銀河鉄道の父」を観るこどもの日

5/6
気分は黄金週終了立夏かな

5/7
スマホで動画観る黄金週最終日

5/8
換気扇の埃を落とす五月かな

5/9
バラ園の香りや夢が空を飛ぶ

薫風やヒッポグリフとお辞儀する

5/10
片方の靴下ばかり五月かな

5/11
土砂降りに荷物抱へて五月かな

5/12
ここのところ早く眠くなる初夏の宵

5/13
新しき振り付け踊る五月かな

5/14
母の日に母と食べる焼きプリン

5/15
気になっていたジムビーム飲む五月

5/16
明日はオフ映画二本観る五月午後

5/17
白黒の映画淡々と五月かな

5/18
背筋を使ふ基礎練五月かな

5/19
若葉雨映画の中でも雨が降る

5/20
天使の絵修復する五月舞台

5/21
「シャララ」とまた会えるよと五月映画

5/22
北関東は夕方からメイストーム

5/23
キショウブ芭蕉通りの石の標

玉生(たまにゅう)宿過ぎて小雨や麦の秋

ホトトギスに誘はれ芭蕉と共に行く

ホトトギス鳴く湧水池に雨が降る

松並木根本にシャガの五、六本

帽子の紐きゅっと結べば春疾風

青空の下すべてをさらけだす春の旅

5/24
宇都宮のかりまん食べる薄暑かな

5/25
しっかりと細かい直し薄暑かな

5/26
海岸じゅう心ひとつに五月の花火

5/27
ミュージカル練本格始動五月かな

5/28
新しいスニーカーで歩く五月かな

5/29
ゴミ出しも傘差して行く走り梅雨

5/30
黒い絵を訪ねる露伴五月逝く

5/31
初夏映画ライオン少年(獅子少年)に涙する

 


一日一句 178に続く

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2024/02/07/094344


一日一句 目次 1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/02/07/092704


一日一句 目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/05/29/195328