紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

上諏訪 伊東近代美術館の解説

美術collectionより

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伊東近代美術館は、伊東酒造の創業者伊東充の収集した約330点の日本画と彫刻を展示する美術館。昭和47年、郷里諏訪湖の畔に開館。
昭和61年に富士見高原に移転。平成20年に諏訪市に移転、伊東酒造の自社蔵の隣にあった大正時代の古民家やみそ蔵、店舗を改修して美術館にした。低い天井や急な階段など昔の造りをそのまま生かし、和の香りが漂う。
コレクションの日本画は、伊東深水をはじめ、横山大観川合玉堂、山口蓬春、奥村土牛、上村松篁、小倉遊亀、奥田元来、大山忠作など第一線で活躍した画家の200点。
彫刻では、平櫛田中の20年にわたって完成された畢生の大作「鏡獅子」(国立劇場ロビーに展示・国立美術館所蔵)の試作品彩色木彫像など多数の作品を収蔵している。常設展のほか、年4回特別展を開催する。

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足長神社

『日本の神々』より
「 足長神社は桑原城跡の山腹に鎮座する。境内は古松・老杉に囲まれ、諏訪湖とその周辺を樹間に眺望 できる秀景の地である。祭神は足摩乳神で、諏訪上社の末社の一つとして、また、上桑原郷の産土神と して古くから崇敬されてきた。社記によれば、当社は初め足長・手長の両神を合祭し(手長の神はのちに 下桑郷に分祭)、荻をもって社宇の屋上を葺いたことがら「荻の宮」とも呼ばれたという。嘉禎四年(一二 三八)の『諏訪上社物忌令』にも「荻宮明神文珠 足長」とある。また、社記の由緒の項には、大同年間、諏 訪神社大祝有員(上社大祝の始祖)が当社を崇敬し、広大な社殿を建築して自らも近接地に居住したため、 その地を御曾儀平(みそぎだいら)と呼ぴ、有員の廟墓もあると記されている。
 例祭は、古くは十月二十七日、現在は十一月二十七日で、当日、参拝者にみかんを配る。
 当社の口頭伝承によれば、足長神は手長神を背負って諏訪湖で貝や魚をとったといい、また大きな長 いわらじを奉納すれば足長神が旅の安全を守ってくれるという。かつて人々は当社にわらじを奉納して 旅の安全を祈った。
 なお、江戸時代、地元の上桑原村では、諏訪上社の御柱祭に「高島藩家老騎馬行列」を奉納していた が、明治四年の廃藩後、同五年からは足長神社に奉納するようになり、今日に至っている。旧村社。

       -『日本の神々』-   」

甲州道中五十一里塚


案内板
「 甲州道中五十一里塚

 江戸時代の初めに、幕府は「 五街道 」の改修を行って 一里塚 の制を敷き、江戸日本橋を起点として三十六町(一里、約四km)ごと道の両側に塚を築いて、エノキかケヤキの木を植えさせた。ここ神戸には日本橋からの五十一里塚が築かれ、西には上諏訪の片羽に五十二里塚があった。
 塚上のエノキは大人の五倍(八~九m)くらいある大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、野良に働く里人にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り崩された。

    諏訪市教育委員会    」  

火燈(ひとぼし)公園



案内板
「  火燈(ひとぼし)公園

 神戸村では、御柱年の盆の十五日(七月)の夕、頼重院の裏山、前山の峰近い『火とぼし場(火燈場)』で、諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。その年の新しい『麻がら』で作った大きな松明を、神宮寺村河原崎の上社大鳥居の所で見て最も鳥居の形に見えるように、火燈場の斜面に配して灯し、諏訪明神へ『かがり火』を上げた。
 この鳥居火は、『太古からの仕来り(しきたり)』で、いつから行われていたのかは明確ではないが、文化十五年(一八一八)の口上書から推察すると、武田の時代に始まったのではないかと思われる。武田勝頼天正六年(一五七八)の御柱祭に、上社及び下社の大規模な御造宮をしており、この時上社の御造宮にあたった番匠(ばんじょう=大工)が、火燈山に鳥居火の設計をしたのではないかと考えられている。
 鳥居火の鳥居は、笠木(かさぎ)の長さ約一〇〇m、貫(かん)の長さ約八四m、脚の幅約六六mという大仕掛け。点火は先ず大久保の峰の三ツ星から灯し始め、上桑原村から来たお見舞いの大松明(たいまつ)を大久保山の峰に背負い上げ、夕日の沈む頃に灯して三ツ星とし、鳥居火を上げる前ぶれとした。
 現在の諏訪農協会館の前あたりに五王ノ鬼塚があり、この五王ノ鬼塚の松明に点火するのを合図に火とぼし場でもいっせいに点火して鳥居火とした。
 この地は鳥居火、三ツ星、五王ノ鬼塚のほぼ中心に位置することから、区民が『太古からの仕来り』を想う意味からも『火燈し公園』と名づけた。   」

茅野市 弥生通りから出土した大石について


案内板
「 弥生通りから出土した大石について

この石のいわれ ──平成22年2月、茅野駅西口(駅前)土地区画整理事業工事中、弥生通りの地下3メートルの地点から思いもよらぬ巨大な球状岩石が出土した。工事の障害物として破壊、除去されようとしたが、丸い巨石であることに気づき、慎重に掘り出した。
 古来、私達の先祖は磐座(いわくら)信仰をし、地上に鎮座する大石に神の降臨を意識してきた。悠々の時を経た巨大岩石が、突然、地上に出現したことは単なる偶然とは思えない。  我々を守る神の磐座であると信じ、シンボルとして、駅前縄文公園隣接に永久保存することとした。

学術的由来 ── この球状の大石はその成分の構成から、『斜方輝石単射輝石安山岩』と呼ばれる岩石で、今から約12~13万年前に北八ヶ岳の火山活動によって噴出した溶岩が、蓼科高原ゴルフ場周辺の台地を構成した『糸萱溶岩』の一部であり、流出時の成分が縞状に配列した流理構造も見られるところから、溶岩流の先端部分の岩石と推測される。
 また、全体的に多孔質で摩耗度が高いことから、長い年月の間に渋川・上川の度重なる洪水によって、ほぼ球状に削られ、茅野市の台地に堆積していたものと考えられる。

(この由来は茅野市史別巻「自然」の編者・北沢和夫先生の説を要約した)
     茅野駅前まちづくり協議会 」

青柳宿の御射宮司社

案内板
「  青柳宿の御射宮司社(みしゃぐうじしゃ)

 高島藩は、一六五〇年頃より、新田開発を奨励し、金沢地区でも、大沢、大池、木舟新田を始め、宮川沿いの青柳宿のまわりも新田が開発されました。新たに田畑が出来ると検知を行って、石高を決めていました。測量後に使った検綱を納めて、御射宮司社をお祀りしていました。
 ミシャグジ様は、太古の昔から信仰され、自然の中に神が降りてくると信じられ、五穀豊穣、子孫繁栄を守る神として大切にされました。特に諏訪地方は、諏訪の祭神守矢一族の守り神であったことから信仰が盛んで、各地にお宮が祀られております。
又、諏訪大社の元神でもあります。ミシャグジ様の元宮は、茅野市宮川高部の神長官屋敷にあります。

  平成二十九年十一月吉日
   金沢地区コミュニティ運営協議会
   金沢の未来を考える研究会    」

権現の森

案内板
「 市指定史跡
    権現の森
      昭和五十八年四月二十六日指定

 江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは慶長十五年(一六一〇)ごろである。そのころここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、たびかさなる宮川の洪水や慶安三年(一六五〇)の大火を機に南方の現在地に移転し、翌四年に金沢宿と宿名を改めた。この宿場は、山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、交通上、物資の流通上重要な所であった。
 文化二年(一八〇五)に金沢宿より幕府に提出した『御分間御絵図御用宿方明細書上帳』に、『宿持鎮守 除地 拾六四方金山權現森壱ヶ所石御祠御座候 但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候』とあり、権現の森と石祠についての報告がされている。
 参道正面に祀られているのがこの石祠で、建立は承応三年(一六五四)である。青柳宿が移転して金沢宿と名を改めた三年後のことである。金山権現は、祭神は金山彦命で、山の神である。
武田信玄の開発した金鶏金山との関係が考えられ、当時すでに祀られていたのではないかと考えられる。
 石祠の左右には、江戸中期より庶民の信仰として祀られた御嶽座王大権現・庚申・矜羯羅童子と制吨迦童子の脇侍をともなう不動明王・摩利支天・甲子・秩父板東西国巡礼供養塔・津島牛頭天王・大六天・如意輪観音・蚕玉大神・道祖神石祠・石燈籠など大正期までの石造物二十数基が祀られている。
 また、石祠建立のころの植樹と思われるサワラの古木が残存し、森に趣を添えており、信仰の場、また憩いの場として今も江戸時代の名ごりを留めている貴重な場所である。

   平成十七年七月 

      茅野市教育委員会  」

金沢宿 如意輪観音の由来

石碑文
「  如意輪観音の由来

金沢宿本陣問屋、三代目小松三郎左衛門は、金沢山をめぐる金沢町と千野村との山論においてその中心となって働いた人である。延宝六年(一六七八)藩奉行所の裁許状に村、金沢町の立場を強く主張したが、奉行所では駅伝馬の遅れを裁許状に服しないのを理由にはりつけの刑に処した。処刑はその年の十月二十五日町民涙で見守る前で三十四歳を一期に刑場の露と消える。処刑の地はこの付近と伝えられている。
寛延二年(一七四九)供養の地蔵尊が建てられたがいつの頃か水害にあい流失したものと思われる。安政十二年(一八〇〇)下町の人々にのり祀られた如意輪観音をその対象として供養が行われ今日に至っている。

  昭和五十九年十月二十五日
     小松三郎左衛門奉賛会  」

旧甲州街道案内(金沢宿)

案内板
「   →

甲州街道案内
(小松三郎左衛門桟敷場~権現様~御射宮司・焼け屋敷)

 この先に小松三郎左衛門の遺徳を偲び、公徳を称える如意輪観音像(にょうり様)と川の東側に桟敷場(さじきば)があります。この看板から川沿いを少し進むと石仏が並んでいる旧宮川大橋跡があります。そこから、国道(大橋)に出て橋を渡り、右側の川沿いを五十メートル程進んだところで左に権現様が見えます。権現様から国道を渡ると甲州街道案内板があります。そこから二百メートル程進むと、御射宮司・焼け屋敷があります。

(参考・・小松三郎左衛門)
今から約三百五十年前の千六百五十六年(延宝六年)千野村(宮川)との山論争(山の地形と傷害事件)で金沢山の権利を主張する村民の願いを一身に背負って訴訟の先頭に立った小松三郎左衛門(四代目)は、不幸にして敗れ、その責めを受け四十三歳で磔(はりつけ)の刑となり、一族ことごとく追放される悲しい事件がありました。
 千六百五十六年から高島藩主・諏訪忠垣の裁定で内山となっていたが、千六百六十八年入山し、境に関する傷害事件をおこし、それをきっかけに、入会山となってしまいました。千六百七十六年、小松三郎左衛門は、江戸に行き、直訴すると噂が流れ、高島藩に捉えられ、下町二と金沢台の境(宮川河川敷)で村民に見せしめとして磔(はりつけ)の形となりました。(桟敷場)
 その後、山に依存して生きる金沢に苦難の長い年月が過ぎ悲願やる方ない村民の願いを込めて二百年が経過した明治十三年、子孫縁者が宮城上等裁判所に提訴し、誠意と真実に心を動かされた裁判所によって勝訴の判決がおり、ようやく鳴沢山が宮沢より分離され金沢村のものとなり、鳴沢山に唐松の苗が植林されました。


  平成三十年十月吉日
    金沢地区コミュニティ運営協議会
    金沢の未来を考える研究会   」

中馬宿 馬宿


案内板
「 中馬宿 馬宿 (ちゅうまじゅく うまやど)

 宿場の任務は三つあり、公用荷物優先運搬の人馬の継立て、旅人の休泊、通信業務でした。幕府は、この業務のために人足と馬と馬子を常備させ、問屋が取り仕切っていました。江戸中期以降商業が盛んになり、荷物の動きが多くなると、問屋経由の運送では間に合わなくなり、私設の中場荷物問屋(中場宿)が発達しました。
 この馬宿は、江戸時代から明治三十八年まで小林家が一五〇年間中場宿(馬宿)を営業しておりました。現在の建物は明治十三年に上隣の家を買い敷地が増えた所へ以前の倍近い馬宿を建て、表に馬車を駐車できる場所にして、二階を出梁造りとしました。今でもその面影を残しており、庭先に馬つなぎ石が一基あります。当時は、二十四頭の馬と馬方を泊める事が出来ました。
 金沢宿の中馬は、江戸や東海からの塩・茶・特産品などの移入、農産品・酒・炭などの移出の中継点として大いに賑わいました。金沢宿から佐久、上田方面や松本、伊那、高遠方面に物資が往来しました。

   平成二十九年十一月吉日
     金沢地区コミュニティ運営協議会
     金沢の未来を考える研究会   」

旅籠 松坂屋 (はたご まつざかや)


案内板
「 旅籠 松坂屋 (はたご まつざかや)

 甲州街道沿いにある金沢宿は、江戸時代~明治四〇年頃まで、薪を買い、自分で食事の支度をする安価な木賃宿(きちんやど)と、朝晩の食事が出る旅籠(はたご)が十七軒くらいあり、宿場町として栄えておりました。
 松坂屋は、宿場一番の旅籠(旅館)として繁盛し、当時は博打も盛んに行われ、博打場や逃げ道(地下通路)もあったと言われております。先祖は、伊勢の松坂より金沢宿へ来た人と伝えられ、江戸時代に出版された旅行案内書に『松坂屋は女・子供でも安心しておまりいただけます』と宣伝文が載せられていました。
 明治二〇年、二階の座敷に泊っていた薬の行商人が煙草盆を盗もうとして中の灰を布団の中に捨て、それが夜中になって出火し、火事騒ぎに乗じて階下の帳場から金銭を盗んで逃亡しました。建物はその時全焼しましたが、その後再建されたのが現在の建物です。江戸時代後期の旅籠屋の様式を伝えている貴重な建造物であり、昭和の初期まで営業を続けていました。

  平成二十九年十一月吉日
    金沢地区コミュニティ運営協議会
    金沢の未来を考える研究会   」

金沢宿 旅籠屋 丸屋


案内板
「  旅籠屋 丸屋(はたごや まるや)

 甲州街道は、江戸時代初期の慶長七年(一六〇二)頃から整備されました。江戸日本橋から甲府までを表街道、甲府から中山道下諏訪宿までの間(韮崎~台ケ原~教来石~蔦木~金沢~上諏訪)を裏街道と呼ばれました。
 丸屋はこの頃開業しました。屋号の丸屋は、関西、伊勢方面に類似の名称が多く見られることから、祖先はその方面の出身者ではないかと推測されます。蔵の古文書によると、江戸時代より、名主『七左衛門』の名も含め、十六代にわたり引き継がれていることが記録されています。
 現在の建物は、度重なる大火のためか、至って簡素ですが、旅籠屋の格子戸がみられ、元は、正面間口十間、奥行きは八間あり、当時の旅籠屋としては大きい建物でした。正面街道沿いには長い縁側があり、宿場関係者や通行人など、人々の語り合い交流の場でもありました。
 信州金沢の古文書によると、天保十四年(一八四三)には、『金沢宿旅籠屋は、松坂屋を始め、大 二軒、中 七軒、小 八軒(計十七軒)』と記されています。
 金沢宿は、金沢峠を越え伊那市高遠町、飯田方面への高遠街道とつながり、人的・物流の宿場町として栄えておりました。また戦国時代には、武田軍遠征の要路でもありました。金沢村史によると、明治十三年(一八八〇)六月、明治天皇御巡幸の際には、丸屋に二十七名の御一行様にお立ち寄りいただきました。中でも明治政府の重職、
・山田 顕義 参議 日本大学学祖 司法大臣
・寺島 宗則 参議 日本の電気通信の父
          外務卿
の両名が、お食事、ご休憩をされています。
(共奉者名前札 現存)

   令和二年八月吉日
     金沢地区コミュニティ運営協議会
     金沢の未来を考える研究会   」

青柳ゆるぎ石


案内板
「 青柳ゆるぎ石(あおやぎゆるぎいし)

 畑の中に見える巨石は、古来より『ゆるぎ石』と呼ばれています。この石は向かい側JR中央線を越えた先の御狩野集落にも『ゆるぎ石』があります。共に夫婦岩とも呼ばれ、毎日米一粒分ずつ双方歩み寄るという言い伝えがあります。
 江戸時代甲州街道を行き来する旅人は、此の巨石を金澤宿場町出入口の目安にしたと言います。

 平成三十年十月吉日
  金沢地区コミュニティ運営協議会
  金沢の未来を考える研究会   」

御射山神戸の一里塚

案内板

「富士見町指定史跡 御射山神戸の一里塚


 関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、江戸を政治の中心とするため、慶長七年(一六〇二)に江戸と地方を結ぶ幹線道路として五街道を定めた。甲州街道(道中)はその一つで、最初は甲府までであったが、慶長十五年ころになって下諏訪(中山道)まで延長整備された。
 街道には、往来する人々のために宿場や一里塚が設けられた。一里塚は道中の目安のため一里(約四キロメートル)ごとに街道の両脇に盛られた塚で、大きさは五間(約九メートル)四方といわれ、そこにケヤキやエノキなどが植えられた。
 この一里塚は集落の北はずれにあって、江戸の日本橋から四八里め(四九里との説もある)の塚であるといわれ、明治中頃までその役割を果たしていた。道路の東塚にはエノキが、西塚にはケヤキが育っていたが、東塚のエノキは明治初期に枯れてしまったという。
 残っている西塚のケヤキは、塚がつくられた慶長年間に植えられたものと推定され、樹齢はおよそ三八〇年を数える。現在では目通り高で幹の太さが周囲六・九メートル、樹髙は約二五メートルの巨木となり、永い歳月と風雪にたえて堂々たる風格をそなえ、樹勢もなおさかんである。
 甲州街道でこのように塚・ケヤキともに往時のものが保存されている例は他になく、実に貴重な存在である。

    平成十年三月 
       富士見町教育委員会 」

明治天皇御膳水



案内板
「  明治天皇御膳水

 江戸時代、明和九年(一七七二年)甲州街道最高地で、富士山頂を見渡すここ富士見ヶ原に、一軒茶屋が開かれて以来、原の茶屋集落が発展し、明治九年には近隣住民により森深く暗渠を通して湧水が整備され、明治十三年の明治天皇行幸には御膳水として献上された。以来、明治天皇御膳水の名水として斎藤茂吉や島木赤彦などアララギ派歌人犬養毅竹久夢二など著明人も多数来訪し利用されてきた。今地域の美味しい水として茶水や料理水として広く利用されている。

明治天皇御膳水改修環境整備保全事業は、令和三年度長野県地域発元気つくり支援金を活用して、地元の金剛建設および御膳水を守り育てる地域会の皆様の協力により施工されました。」