紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

柏尾坂の馬頭観音


案内板
「  柏尾坂の馬頭観音

 明治36年(1903)中央本線が開通するまで「甲斐駒や江戸へ江戸へと柿葡萄」(其角)が伝えるように、甲州街道の物流を担っていたのは馬である。街道に沿って配置された宿場には、高札で次の宿までの馬での運送賃が駄賃として掲げられていた。しかし、街道には難所も多く、そこで息絶える馬もあり、供養のため、馬頭観音が数多く建立された。柏尾坂の馬頭観音は、ころび石とも呼ばれた急坂に、天保7年(1836)8月に勝沼宿の脇本陣家が中心となり惣伝馬の講中が、信州高遠北原村の石工太蔵を招いて建立したもので、三面に馬頭観音を含む彫像が刻まれ、勝沼宿の管内では柏尾の袖切観音とならび優れた造形を有したものである。  」

柏尾の戦い

案内板
「   柏尾の戦い

 慶応4年(1868)3月5日、江戸より大久保剛(近藤勇)率いる幕府軍は、柏尾橋の東詰、鳥居の前に本陣を据え、大砲を二門据えつけ、宿内二箇所に通りを遮る柵門を設け、日川左岸の岩崎山に日野の春日隊を配した。夜にはいたる所で簿火がたかれ、柵の警備に宿の人もかりだされていた。
 3月5日に甲府城に入城した板垣退助率いる官軍は、6日甲州街道因幡藩、諏訪藩、土佐藩の本隊が進軍し、途中岩崎方面に土佐藩隊、菱山から柏尾山を越える 因幡藩隊の3手に分け柏尾に迫った。
 3月6日午後、最初の銃声は、等々カ村と勝沼宿の境に造られた柵門の所で起こった。幕府軍二人をねらって官軍が撃った銃弾は、宿人足の宇兵衛を即死させてしまった。柵を破って進軍する官軍は、通りから家の裏まで見通しがきくよう、宿の家々に建具をすべて外させ、家の者は裏の物陰に隠れ動かないように命令した。このとき通りに飛び出してしまった女性が一人撃たれてしまったという。宿通りを進軍する官
軍に対し、幕府軍は次第に後退し、柏尾の茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き、橋から鳥居までの坂道に木を切り倒し、官軍の進撃路を防いだ。官軍は、五所大神の南のダイホウインの台地に大砲を据え、深沢の渓谷を挟んで、打ち合いが行われた。岩崎方面では白兵戦が行われ、一進一退を繰り返していたが、官軍の3手目の因幡藩隊が山越えに成功し、深沢川の上流から幕府軍の本陣に攻め入ったため、総崩れとなり、甲州街道を江戸に向かい敗走し、1時間ほどで官軍の勝利に終わった。」

柏尾橋

案内板
「   柏尾橋

 明治13年6月明治天皇の山梨御巡幸に際し、甲州街道の拡幅整備が進められた。
 この時柏尾橋は、幅3間長さ19間の欄干付き木造橋として掛け替えられた。橋は深沢の両岸の岩盤中程から、二段の石垣を積み上げ橋台とし、下段の石垣からトラス構造の橋脚を両岸から突き出し連結したもので、明治26年の版画や大正初期の銅版画が残されている。
 この明治橋の北側には、大正から昭和初期に掛け替えられた橋台、さらに江戸時代の橋台が
残っており、南には、現在の鉄骨橋、平成8年、さらに下流甲州街道以前の大善寺東参道の橋があった位置に祗園橋が掛けられた。  

         勝沼町  教育委員会 」

史跡 鶴瀬関所跡

案内板
「  史跡 鶴瀬関所跡

 甲州道中鶴瀬宿東のこの地は、北は山々に閉ざされ、南は日川に阻まれた天然の要害となっており、郡内領より笹子峠を越えて国中に通ずる要所にあたり、ここを通らずして江戸への出入りが難しいこの地に関所が設けられました。
 この関は甲州道中の小仏関につぐ口留番所として、上り男手形不要、女上下とも改めて、江戸への鉄砲の入りと、大名妻女の江戸からの脱出「入り鉄砲に出女」を特に警戒したと云われています。
 女の番所通過には、代官・甲府勤番支配・駿府町奉行の手形が必要であり、諸国の神仏参詣には、住所地の名主手形で通行させたと云われています。
 安永五年(一七七六)までは佐藤氏が番人を務めたが、同年後は小宮山氏にかわり、高米二十俵・二人扶持が給せられた。さらに下番二人ずつを村役として鶴瀬・日影・初鹿野の三村が務めました。
 関は明け六つ(午前六時)に開門、暮れ六つ(午後六時)に閉門した。享保年間の検地に八間半の間口三間半口留番所一畝歩と言い伝えられています。
 また、参勤交代の際に利用した藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩でした。
 特に鶴瀬の関は甲州一二関の一つとも云われ重要視され、江戸時代を通じて機能を果たしてきたせきしょであったが、明治二年(一八六九)に廃関され建物は取り壊されました。
 現在は、道路の拡幅等により往時の面影は失われてしまいましたが、『木戸下』の小字名は残り、後世に残す遺跡として市の史跡に指定されています。

平成二十六年三月 大和まちづくり推進会」

案内板 笹子峠 甲州峠唄

案内板
「  笹子峠

 徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約五十五里)
を開通させました。
 笹子峠はほぼその中間で江戸から約二十七里(約百粁)の笹子宿と駒飼宿を結ぶ標高壱千五十六米、上下三里の難所でした。
 峠には諏訪神社分社と天神社が祀られていて広場には常時、馬が二十頭程繋がれていました。峠を下ると清水橋までに馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事場、自害沢、天明水等がありました。また、この峠を往来した当時の旅人を偲んで昭和六十一年二月十二日、次のような唄が作られ発表されました。

       甲州峠唄                        
             作詞 金田一春彦    
             作曲 西岡 文朗

    あれに白いは コブシの花か
    峠三里は  春がすみ
    うしろ見返りゃ  今来た道は 
    林の中を  見え隠れ
    高くさえずる   妻恋雲雀
    おれも歌おうか あの歌を
    ここは何処だと  馬子衆に問えば
    ここは甲州  笹子道

 この唄の発表によって旧道を復元しようという気運が高まり昭和六十二年五月、清水橋から
峠まで地域推進の一環として、日影区民一同と大和村文化協会の協力によって荒れていた旧道を整備して歩行の出来る状態にしました。
                                                 佐藤 達明 文   」

        

笹子隧道について

案内板
「  笹子隧道について

 四方を山に囲まれた山梨にとって昔から重要な交通ルートであった甲州街道。その甲州街道にあって一番の難所といわれたのが笹子峠です。
 この難所に開削された笹子隧道は、昭和十一年から十三年まで、国庫補助を入れて二八万六千七百円の工費を投入し昭和十三年三月に完成しました。抗門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が大変特徴的であります。
 昭和三三年新笹子トンネルが開通するまでこの隧道は、山梨、遠くは長野辺りから東京までの幹線道路として甲州街道の交通を支えていました。南大菩薩嶺を越える大月市笹子町追分(旧笹子村)より大和村日影(旧日影村)までの笹子峠越えは、距離十数キロメートル、幅員が狭くつづら折りのカーブも大変多いためまさしく難所で、遥か東の東京はまだまだ遠い都だったことでしょう。
 昭和前期の大役を終え静寂の中にあるこのトンネルは、平成十一年、登録有形文化財に指定されました。

     大月土木事務所   」

矢立の杉の歌詞の碑

矢立の杉の歌詞の碑

「 矢立の杉

作詞・作曲 大地良
唄     杉良太郎

絹雨が降り 足が止まる
虹が出て まるで夢の中
目の前に そびえる 千年の杉
旅人よ 少し休んでいかないかと
語りかけてくる
ここは甲州笹子峠の 黒野田村
矢立の杉の物語

粉雪が舞う 夢も凍る
立ちすくむ まるで闇の中
若者よ 悩むな 落ちた花びら
かれるだけ さびた心とけてゆく
ほこらの中から
見上げる空に輝く星が 強く生きろ
矢立の杉が抱きしめる

旅人よ 生きることに疲れた時は
ここへ来るといい
ここは甲州笹子峠の 黒野田村
矢立の杉のあるところ      」

矢立の杉

案内板
「 県指定天然記念物
    笹子峠の矢立のスギ


所在地 山梨県大月市笹子町大字黒野田字笹子1924の1

種類  スギ
指定  昭和35年11月7日
所有  山梨県

このスギは昔から有名なもので、昔の武者が出陣にあたって、矢をこのスギに うちたてて、武運を祈ったところから「矢立のスギ」と呼ばれてきたものである。 そのような名木であるうえに巨樹であるために、県指定天然記念物にされて いるものである。

その規模は次のようである。
 根廻り幹囲  14.80メートル
 目通り幹囲   9.00メートル
 樹   高 約26.50メートル
 幹は地上約21.50メートルで折れ樹幹中は
 空洞になっている。

   昭和50年10月 山梨県教育委員会 」
 
 

笹子峠 三軒茶屋跡 顕彰の記

案内板

「    顕彰の記

 過ぐる明治十三年六月十九日大帝本縣御巡幸に際し 畏れ多くも此の地天野治兵衛家に御野立あらせられ 聖蹟を永久に残させ給へりと雖も(いえども) 時代の変遷と文化の発達による中央線の開通は 此の地を過ぐる者をして絶無ならしめ 為に聖蹟も又口碑に傳ふるに過ぎざりき

 聖蹟の持ち主 天野治兵衛氏

之を慨嘆する事多年其の効空しからず 陸軍大将菱刈閣下の御揮毫を得て 記念碑を建立し以て之を永久に傳へんとす

明治天皇御野立所跡記念碑除幕式における笹子村長天野五六様祝辞より抜粋  」

黒野宿笠懸地蔵は、地蔵ではなく灯籠


大月市郷土資料館発行のツアーガイド資料によりますと、黒野宿の笠懸地蔵は地蔵ではなく、何と!灯籠に分類されるそうです。
 
「傍らに立つ説明文によると、 黒野田地区ではその由来 についてはわからないままに古くから 「笠懸地蔵」と呼 ばれていたようです。 しかし、 笠石の後部に 「秋葉山 安政二年卯年五月」 と刻まれていることから、 火伏の神の 住む秋葉山と関係あるものとして 『大月市の石造物』 (大 月市教育委員会 1993) では、 「灯篭」 として分類して います。 そう言われてみると、 笠の上に載っている玉状 のものは宝珠に似ていますし、 笠はそのままに、 人型の 部分は基礎や竿 (柱) にあたるようにも見えます。 おそ らく頭部と笠の間には火をともす火袋とそれを支える中 台があったのでしょうが、 水害や道路拡幅工事などによ り散失してしまったのだと考えられます。」

黒野宿 笠懸地蔵

案内板
「  甲州街道
   黒埜宿 笠懸地蔵
     由来

 往古より此の街道の路傍に分厚い笠様の物を頭に立ちつくす。小作りの珍形石造地蔵が在る。
 之を黒埜宿、笠懸地蔵と呼ぶ。しかし、此の由来に就いては今も詳ならず
 創建は安政二年卯5月(1855)十三代将軍徳川家定天領政治時代と刻字が有る。
 此の地蔵創建の根源を考証するとき、遠くは天明、百性一揆を農史にとどめた。天保の大飢饉、徳川天領時代の七公三民の重税、領民の生活は農作物等の不作に依る餓死、心中、乞食、其の窮乏は後絶たず、領民は襲ってくる苦汁に満ちた諸業を善しかれと地蔵に心願して来たものである。
 今は只、笠懸地蔵として伝へる術しか有り得ない。
  
  平成四年 黒埜宿領民説之   」

稲村神社御由緒(大月市笹子町吉久保)

案内板
「  稲村神社 御由緒  古棟札 

大宝山、稲村大神、稲村四所明神、(黒野田、原吉久保、側子、小形山)、稲村大明神と稱す。

大月市笹子町大字吉久保一〇五七番地に在す。

祭神四神
一、目常立尊
一、素戔嗚尊
一、日本武尊
一、稲田姫

吉久保、原の氏神、嘉暦二年一月十二日創建せると古棟札に伝ふ。
往古社中に大小の石棒○奉祀せしと言いしも其の由詳ならず。   」

注1:目常立尊は調べたけれど分かりません。国常立尊は書いてありました。

国常立尊 コトバンクより

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国常立尊 くにのとこたちのみこと

記・紀にみえる神。 天地創成神話の国土神の最初の神。 「日本書紀」によると,天地がわかれはじめたとき第一にあらわれたとされ,国底立尊ともいう。 「古事記」では国之常立神(くにのとこたちのかみ)といい,天津神(あまつかみ)のうちでも特別にあつかわれている5柱の神の次に登場する。

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注2:最後の方に書いてある、「往古社中に大小の石棒○奉祀せしと言いしも其の由詳ならず。」の○は解読出来ませんでした。上に廿、下に十寸という字。寺に似ています。もしかしたら、石棒の数が二十余り、という意味なのか。

親鸞上人念佛塚の旧跡


案内板
「  親鸞上人念佛塚の旧跡

 去る程に此の前方の低地が昔時、甲斐沼池としられた葦ヶ池なりしと伝へる。其池の總面積は最大時は三丁歩余り、葦ヶ窪郷の四分の一をしめてるとの説も伝へられる。
鎌倉時代、西暦一二二五年代、浄土眞宗の開祖親鸞上人が甲洲等々力の積合、萬福寺に参詣の帰路、此の地頭、北面の武士、小俣左衛門尉重澄宅に立寄りしところ葦ヶ池にまつわる毒蛇済度の祈願をこんせいされる。
章ヶ窪の地頭小保左衛門尉重澄には「よし」なる娘有り、 たまたま京より来りし半僧修行僧晋挺 (しんてい) 奈良 興福寺 法性宗の高僧行基が造った阿彌海の阿弥陀堂にこもりて断食修行中、その晋挺に心よせしが僧業。身には女性のその意を深く 説得され其の意の通せざるを嘆き悲しみこの池に投身若き生涯を果しときく。
地頭のこん願に依り上人供養、三七二十一日間小石に六字の名号を墨書し、 池中に投入するや「よし」の霊は成仏済度され池中に異様な轟き有りて 「よし」の霊は観世音大士の姿となり、上人の池中に投入れた小石が白虎を帯びて先達となり郷人の驚き騒ぐ中東南の空高く消え去りて遠く、 伊豆の手石浜に落ちしと伝へる。 今も手石浜の阿彌陀 「くつ」 には、参詣の人の絶え間なしときく。

 池には葦草が群れ、低地なる故に葦ヶ窪の地名起源とも伝へられる
葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄は後に、親鸞上人の徳を慕って出家僧行を積僧唯念と稱し、真木英福寺一世開山となる。
又、此の時期、大布乃名号で知られる龍泉寺 寺の下の作太郎も上人の徳を慕って僧業し永讚坊楽信として、真木福正寺三世住職となる。両寺共、教行信證、浄土真宗なり。
    
        合掌

山本周五郎生誕の地

大月市観光協会ホームページより

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山本周五郎について】 人情味あふれる歴史・時代小説の巨匠『山本周五郎』は、 1903年(明治36年)に大月市初狩町で生まれました。 地元でみどう屋敷と呼ばれた長屋に住んでおりました。 周五郎の名付け親は長屋の持ち主の奥脇愛五郎。 明治36年の生まれであることから三十六(さとむ)と命名されました。 家族が増え、家が手狭になったことから1906年10月に初狩を出て 大月駅前の運送店に間借りをし、両親と三十六は生活を始めました。 翌年8月に降り続いた豪雨で、初狩村では大洪水が起き 高川山の寒場沢から山津波が発生。 土砂は中央線を越え、みどう屋敷も飲み込み親族が命を落としています。 三十六は大月駅前に移り住んでいたため難を逃れました。 その後まもなく両親とともに大月を離れ 東京日本橋の「山本周五郎商店』に徒弟として住み込み その主人に深く心酔したので、後年、小説家となった三十六は ペンネームを山本周五郎としたといわれています。 JR中央線初狩駅近くの国道20号線沿いには、周五郎の名付け親の家 奥脇家住宅(甲州街道初狩宿の本陣跡)が残っており 敷地内には『山本周五郎生誕之地』の石碑(1979年)が建てられています。

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重要文化財 星野家住宅

案内板
「 重要文化財 星野家住宅
  籾蔵 味噌蔵 文庫蔵及び家相
  昭和五十一年五月二十日 指定

 星野家は甲州街道下花咲宿(現在大月市大月町花咲) にあって、江戸時代に本陣、庄屋、問屋をつとめた旧家です。
 現在の主屋は天保六年(一八三六年)に焼失した後、再建されたもので、大きな建築部材が用いられた意匠などは本陣建築の性格をよく表しており、後世の改変も少なく、細部まで当初の形を残した貴重な建造物です。
 星野家住宅は、参勤交代の大名が宿泊する本陣としての利用だけでなく、荷物の継送りをする問屋場としても利用されました。
 また、明治十三年(一八八〇年)、明治天皇の巡幸の際に『御小休』の場として使用された上段の間も当時のまま残っています。

      大月市教育委員会  」