案内板
「 柏尾坂の馬頭観音
明治36年(1903)中央本線が開通するまで「甲斐駒や江戸へ江戸へと柿葡萄」(其角)が伝えるように、甲州街道の物流を担っていたのは馬である。街道に沿って配置された宿場には、高札で次の宿までの馬での運送賃が駄賃として掲げられていた。しかし、街道には難所も多く、そこで息絶える馬もあり、供養のため、馬頭観音が数多く建立された。柏尾坂の馬頭観音は、ころび石とも呼ばれた急坂に、天保7年(1836)8月に勝沼宿の脇本陣家が中心となり惣伝馬の講中が、信州高遠北原村の石工太蔵を招いて建立したもので、三面に馬頭観音を含む彫像が刻まれ、勝沼宿の管内では柏尾の袖切観音とならび優れた造形を有したものである。 」