紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

旧水戸街道常夜燈

案内板
「  矢吹町指定
   重要有形文化財

    旧水戸街道常夜燈

  指 定  平成25年2月15日

  所在地  矢吹町新町39番地

  所有者  ふ矢吹町

  占有者  根本精樹

 この常夜燈は、文化8年(1811)に奥州街道中畑新田宿より水戸街道に 分岐する道路上に近隣住民によって建立されたものである。刻字は摩滅してい るが、その痕跡で知ることができる。

 江戸期になると、街道が整備され宿場も整えられ、その運営は地元住民の協力で行なわれていた。街道筋の常夜燈は、宿の入口や交差点などの路上に作ら れ、夜間絶やすことなく火を燈し旅の安全と道標として旅人の心を慰め続けた。 

 電灯の発明、道路改修などにより石造常夜燈は姿を消した。現存する常夜燈 は珍しい存在となっている。当常夜燈は幾多の変遷を経て住民に守られて原地点に近い私有地に改修移築したものである。

    平成27年3月

        矢吹町教育委員会

        矢吹町文化財保護審議会

 

 

 

 

大和内の天道念仏踊り

 

案内板

「  矢吹町指定民族文化財

 

   大和内の天道念仏踊り

        所在地 大和内地区

        所有者 大和内地区

        大和久の天童念仏踊り保存会

太陽の暖かい恵みと豊作を祈願して天道念仏踊りが、かっ て各地で盛んに行われ、とくに白河藩内は藩主の奨励もあっ て多かったようである。しかし、太平洋戦争後は激減した。 昭和54年9月、20数年ぶりに「大和内の天道念仏踊り」 は復活され、毎年6月14日と6月23日鎮守日吉神社境内 で行われる。踊り手は、青年男子で太鼓、笛の囃子につれて 輪になって踊る。はじめ囃子だけの前奏があってから「きみ ょうちょうらい」 「かみがたくだり」 「さよのなかやま」の 三曲を素手または手拭を用いて踊る。以前は輪の中央に「お 棚」という神棚を設けたようで、この点では白河市関辺のも のと似ている。歌詞は西郷村上羽太のものと似ている。ただ 大和内では各曲の間に「はねっこ踊り」を入れているところ が特色といえる。現在、天童念仏踊りは大和内のものを入れ て、県内に3件しかなく貴重である。

 

    昭和56年5月1日指定

       矢吹町教育委員会

       矢吹町文化財保護審議会 」

 

 

 

 

卯右衛門茶屋と文七茶屋

 

案内板
「  矢吹町文化財

    卯右衛門茶屋と文七茶屋

     所在地  矢吹町五本松

 大和内七曲り地内は、明治の初めごろまで「富士見峠」と称され、現在も旧道が残っている。峠をこえて泉崎寄りに卯右衛門茶屋と文七茶屋の二つの茶屋が軒を連ね、旅人の往来の休み処として繁盛したと伝えられている。

これらの茶屋は明治中頃、鉄道の開通によって街道がさびれ、店じまいを余儀な くされるまで代々引きつがれてきた。

 卯右衛門茶屋は別名「馬宿」ともいわれ、大縄を使い数十尺の深井戸から汲みあげるおいしい水が名物であった。現在もその井戸はここに残っている。

 文七茶屋は馬宿に対して「丑宿」と呼ばれ、この茶屋からの見晴らしがすばらし く「文七茶屋に腰かけて、遙か釜池眺むれば、鶴と亀とが舞い遊ぶ」という松坂 (祝い唄)を歌ったと古老に聞いた事もあった。

 昭和60年1月

       矢吹町教育委員会

       矢吹町文化財保護審議会  」

 

 

 

五本松の松並木

案内板
「   矢吹町指定 天然記念物

  五本松の松並木 
    所在地 矢吹町五本松

 寛永12年(1635) 三代将軍徳川家光時代に、参勤交代が制度化し、全国街道筋に松並木を植えさせた。

 大名あるいは、旅人の往来はさかんになり、松並木は夏は陽をさけ、冬は風をよけて旅人の便をはかり、旅情をなぐさめた。

 矢吹町の松並木は、松平定信の時、領内の街道に松苗 2,300本 を植えたのが始まりであるといわれている。

 現在五本松にある松並木は明治18年(1885) ころ補植した ものである。

   昭和52年9月7日 町指定

   昭和49年3月22日 自然環境保全地区指定

 平成元年3月25日

        矢吹町教育委員会 
        矢吹町文化財保護審議会 」

 

 

 

 

 

泉崎村 踏瀬旧国道松並木

 

案内板

「  泉崎村指定天然記念物

   踏瀬旧国道松並木

 この道は、奥州街道(旧国道) として江戸と陸奥を結ぶ主要道として 使用されていました。

 大名が江戸に出向く参勤交代の際や旅人がここを往来する際の日除け ・風除けとして、白河藩松平定信が領内の街道沿いに2300本の松苗を 植樹したのが始まりであると伝えられています。

 江戸時代には踏瀬宿(泉崎村側)から大和久宿 (矢吹町側)に至る中ほどにちょうど一里塚が設け られていたとみられ、泉崎村側には現在も一里壇の 地名が残っています。松並木は泉崎村から矢吹町 へと連なりますが、矢吹町では『五本松の松並木』 として知られています。

 現在の松並木は明治18年(西暦1885年)頃に 補植されたものです。

  所在地:泉崎村大字踏瀬字赤沢山地内

  指定日:昭和51年6月22日

      平成18年10月

           泉崎村     」

 

 

 

 

 

 

武光地蔵(首切り地蔵)

 

案内板
「 首切り地蔵(武光地蔵)の由来

 江戸時代に造られた石地蔵で、むかし この付近に住んでいた長者の墓標ともいわれている。
 ある時、仙台伊達藩の家臣で赤胴三五平という者
が、主君の命を受けて江戸に向かう途中、夜中にここを通ると一人の美人に出逢った。赤胴は、この女を妖怪だと思い、持っていた武光(竹光)で斬りかかったという。
 その後、江戸から帰郷する途中、再び この場所を通ると石地蔵の首がころげ落 ちていたと伝えられている。
 昭和四〇年代までは、この地蔵の首は 落ちたままだったがいつの間にか首がつなげられ、付近の住民から首切り地蔵と呼ばれるようになった。 
 小田川村では身堂地蔵菩薩として崇められており、大同五年(西暦八百十年)に建立されたとも伝えられている。 

   平成二十五年五月吉日

    太田川老人会·泉崎村教育委員会 」

 

 

 

 

 

白河市 宗祇戻し

 

案内板


「   芭蕉の句碑

早苗にも 我色くろき 日数かな  はせを翁

 松尾芭蕉(一六四四~一六九四)が、「おくのほそ道」紀行において、白河を越えて詠んだ句である。葉の色が若々しい早苗の時期でありながら、自らは旅立ち から日数を経て、日焼けで黒くなっているという様子を詠んでいる。 
 この句は、芭蕉に同行した曽良の「俳諧書留」に記されている。
 芭蕉の百五十回忌である天保十四年(一八四三)に、乙丸(白河藩士太幡六郎)ら、白河の俳人によって建立された。


   宗祇(そうぎ)戻しの碑

  室町時代連歌師、宗祇(一四二二~一五〇二)にまつわる伝承の碑である。

 文明十三年(一四八一)、白河の領主結城政朝(ゆつきまさとも)は一日一万句の連歌興行を催し た。参加しようとした宗祇はここで会った女性に興行の終了を告げられ、ここか ら引き返した。その際、戯れに宗祇が女性の持つ綿を売るかと聞くと「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそうるかと言えるわたはありけれ」と、「売るか」と「胰(うるか)、(鮎のはらわた)、「綿」と「腸」を掛けた歌で返された。宗祇は、奥州では庶民 でも即興でこのような歌を詠めることに感心したという。 
 また、芭蕉の門人、曽良の日記では別の内容が伝わる。連歌興行で句が難しく、続く句が三日出なかったのを、白河にいた宗祇が聞きつけ会場に向かうと、この 地に現れた女性が自分が解決したと言い姿を消し、宗祇もこの場を去ったという ものである。道路改修によってこの場所が忘れられることを惜しみ、昭和九年 (一九三四)に白河川柳能因会によって建てられた。

     白河観光物産協会   」

 

 

 

白河市 うたたねの森

 

案内板

「   転寝(うたたね)の森

江戸時代後期の文化二年(一八〇五)に完成した白河の地誌『白河風土記』によれば、源義家陸奥に下った際、林の下でしばらく休み、うたた 寝をしたことからこの名がついたと伝える。

また、『八雲集』にある清少納言曽弥の歌の
「『陸奥(みちのく)のうたたね(の)森のはしたへていな(稲負)を ふせとりも かよは(通わ)さりけり』がこの場所であるという。

かつては林であったが、『白河風土記』が編纂される頃には杉が二本と桜の若木二株が残っているのみであったという。

根元にある石碑には阿部正方の『いにしえのもの見の杉も跡たえて 名のみぞのこる うたたね の森』の歌が刻まれている。

       白河観光物産協会   」

 

 

白河 鹿嶋神社

 

白河鹿嶋神社ホームページより

 

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〈御祭神〉

武甕槌命(たけみかづちのみこと)

 

〈御由緒〉

宝亀年間(770~780年)光仁天皇の御代この地に祭られ、弘仁2年(811年)坂上田村麻呂が東夷征伐の際、改めて常陸国鹿島大明神を勧請した神社で、白河地方の総鎮守とし、武の神、白河以北を守る神として、戦勝を祈願したと言われています。延喜式神名帳(成立927年)にのこる式内社でもあります。その後も歴代城主の尊崇あつく、城主自ら奉幣、参籠し、祭田や社殿の寄進もありました。

文明13年(1481年)時の城主小峯政朝が神社において1万句奉納の連歌会をおこないました。著名の連歌師宗祗が西国からはるばるこの地にやって来たのも、この会に出るためでした。このことは、当時の白河地方の文化が相当高い水準だったことを示しています。

文化3年(1783年)松平大和守により『鹿嶋大神宮』の額が、また大正14年(1925年)海軍元帥東郷平八郎により『鹿島宮』の額が奉納されています。この両額は今も神社の正面に掲げられています。寛政7年(1796年)松平定信公により『楯無しのよろい』(市文化財)も奉納されています。

明治43年(1910年)不幸にして火災にあい、建造物、備品のほとんどを焼失しましたが、大正元年(1912年)再建され、現在に至っています。また、古来より歌枕にある転寝の森(うたたねのもり)は、当神社の飛地境内で、東へ300メートル程のところにあります。

 

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白川城

Wikipediaより

 

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白川城は、中世、白河荘を拠点として陸奥国南部を支配した白河結城氏歴代の居城跡であり[1]1189年文治5年)、結城朝光源頼朝より白川の地を与えられた。その孫、結城祐広は、1289年頃にこの地に移住して、白川城を居城とした。正確な築城年代はわかっていないが、『白河風土記』(1805年文化2年))では「列封略伝等も祐広を白川城跡の始めと記しぬ」とし、白川城を本拠としていたと記している。室町時代には奥州南部から北関東まで勢力を拡大したが、1510年永正7年)、惣領の結城政朝が一族の小峰氏によって追放され(永正の変)、小峰氏の血統による新たな白河結城氏が成立した。また、この時期に結城氏の本拠も白川城から小峰城に移ったとされる。1575年天正3年)、小峰義親が宗家の義顕を追放した(天正の変)際に本拠が移されたともいわれる。1590年天正18年)の奥羽仕置で白河結城氏は改易、約400年に及ぶ南奥支配は終焉を迎えた。白河結城氏の衰退と共に、白川城は廃城となった。正確な廃城年代もわかっていない。

 

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関山満願寺境内の碑 「おくのほそ道の山」

 

「     奥のほそ道の山

 

「漂泊の思ひやまず」、「春立る霞の空に白河の関越えんとそぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神の招きにあひて取もの手につかず」
弟子の曽良を伴って、元禄二年(一八六九年)奥州へ旅立った芭蕉は、四月二〇日陽暦なら六月七日、白河の地に立った。暮れ前から小雨模様であったこの夜は関跡旗宿に泊まった。
翌八日梅雨の霖雨も辰の上刻午前七時半ころにはあがり、、関の明神を参詣した後、風騒の二人は関山へ向かった。歌枕、白河の関の所在地について現地で戸惑いを感じた芭蕉は関山に惹かれ旗宿より北東三粁にある南麓の内松部落をぬけて稲荷社と「せき山」と刻んだ石の古道標のある地点より登った。
 
曽良の日記
関山ヘ参詣、行基菩薩ノ開基、聖武天皇御願寺聖観音ノ由、成就山満願寺
旗ノ宿ヨリ峯迄一里半 麓ヨリ峯マデ十八丁 山門有 本堂有 奥ニ弘法大師行基菩薩堂有
山門ト本道ノ間 別当・寺有 真言宗なり 本堂参詣ノ比少雨降ル 暫時止。


関守の宿を水鶏(くいな)に問はうもの 芭蕉

卯の花をかざしに関の晴れ着かな   曽良

奥の花や四月に咲を関の山      桃隣  

 

 

      白河市長 小野亀八郎 書   」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関山満願寺の銅鐘

案内板

「  国認定重要美術品《工芸品)

     銅鐘(どうしょう)

認定年月日 昭和19年7月6日

所在地   白河市関辺関山

大きさ   総高 135cm

                       口径 106cm

満願寺(真言宗) に伝来した銅鐘で、寛文4年(1664)  10月、当時の白河藩主本多忠平(藩主在職=1662~1681) が寄進したものです。

 乳(ち)は5段5列で配され、池(いけ)の間(ま)(鐘のほぼ中央の区画) には4区全てにわたって「奥州白河莊成就山満願寺鐘銘并 序」と題した満願寺の由緒などを記した銘文が刻まれてい ます。末尾には大檀那の忠平のほか、奉行2名や発起願人 6名、勧進僧8名、鋳物師の名があり、制作した鋳物師は 江戸の椎名吉綱とその弟子の椎名正重・太田正信であるこ とが分かります。

        白河市教育委員会    」

 

 

注:銅鐘の部分名称で、たくさん並んだ小さな突起を乳(ち)と言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庄司戻しの桜

 

案内板

「  

  白河市指定史跡

    庄司戻しの桜(霊桜碑)

所在地 白河市郷中野字正司戻五十八
指定年月日  昭和五十五年三月十四日

治承四年(一一八〇)、源頼朝の挙兵を知り奥州平泉から鎌倉に馳せる源義経に対し、 信夫の庄司佐藤基治は自子継信・忠信を従わせ、決別するにあたり「汝等忠義の士たらば この桜の杖が生づくであろう。」と諭して携 えていた一本の桜の杖をこの地に突き立てた。 この後、戦いに臨み兄弟共に勇戦し、義経の 身代わりとなって討死した。

桜はその忠節に感じて活着し繁茂したという。後の天保年間(一八三〇~四四) 野火に よって焼失した後も、新しい芽が次々と出て、 美しい花を咲かせるという。

      白河市教育委員会  」

 

 

一日一句 186

2024年2月


2/1 
軽やかに振り付けスケッチ寒稽古

2/2
服装を褒められ寒の帰り道

2/3
並んでもこの恵方巻欲しかった

2/4
立春にワールドツアー鬼滅観る

2/5
早春の雪滑りやすき帰り道

2/6
二月の雪やみて出掛けるスイーツパラダイス

2/7
久々に娘とランチ二月かな

2/8
しっかりとストレッチする二月かな

2/9
試験勉強声が気になる二月かな

2/10
引っ越し祝ひと偲ぶ会二月かな

2/11
早春や「身代わり忠臣蔵」に泣く

2/12
芭蕉句碑探す二月の宝泉寺

早春の金沢句碑に烏戯れる

薦(こも)掛けは金沢冬の風物詩

春浅し芭蕉の嘆きの句碑を見る

2/13
早春や句碑解読する野蛟神社(ぬづちじんじゃ)

2/14
助け合ひ生きる心の二月映画

2/15
早春のレッスン体験の方も来て

2/16
二月金曜見逃し配信一気見し

2/17
何を描こう三寒四温今日は寒い

2/18
淡き春怖い映画を二本観る

2/19
一日中降ったりやんだり菜種梅雨

2/20
再びの煉獄さんに泣く二月

2/21
再びのジブリ映画や寒戻り

2/22
傘持ち上げて清掃する菜種梅雨

 

2/23
マダムウェブに涙する二月かな

2/24
入浴は明るい内に菜種梅雨

2/25
氷雨降る映画に心も凍りつく

2/26
強風で扉が開かない二月かな

2/27
寒戻り籠って絵手紙三枚描く

2/28
映画観て観て夜は飲み会二月末

2/29
三青年の雄姿が光る閏の日

 


一日一句 187に続く

 
 
一日一句 目次 1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/02/07/092704

一日一句 目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/05/29/195328

 

 

 

 

 

 

一日一句 185

2024年1月


1/1
感動の映画を二本元日や

快晴の元日コロナも落ち着きて

1/2
初詣して歩きに行く二日かな

 

雲切れて夕日に染まる初富士や

1/3
富士を見て初ケンタッキー三日かな

 

山降りて正月の社に笛が鳴る

1/4
階段の御慶高い所からすみません

1/5
病室の清掃に入る五日かな

1/6
新春にコナンとキッドの因縁を観る

1/7
新春やバラバラに歌ふ三橋美智也

1/8
モップ棒がマイクに見えた成人の日

式の後映画観に行く新成人

1/9
オフの日に纏めてVIVANT見る新春や

1/10

寒の雲突きてプテラノドンと飛ぶ

恐竜の卵割り落とす寒の昼外国人が多い今年初USJ

1/11
振り付けのデッサン新年初稽古

1/12
寒中や朝の冷え込み日々更新

1/13
初稽古大人もこどもも新振り付け

1/14
寒中やオフ日は映画を梯子する

1/15
職場にて肩の可動域語る

1/16
寒風を突き辿り着く焼き鳥屋

寒中の午前十時の映画祭

1/17
寒中や床に恵方の東北東

1/18
肩回り柔らかくする館稽古

1/19
防護エプロン着けてお掃除寒の午後

1/20
大寒の土曜掃除の指導する

1/21
寒の雨オフ日に映画三本観る

1/22
感染が再拡大する寒中や

1/23
寒のオフ水族園で見て食べて

1/24
寒中やペストラストシーンの映画観る

1/25
向き変へる意図が分かって寒稽古

1/26
次々とベッドが走る寒中や

1/27
帰宅して見逃しを見る寒の夕

1/28
寒映画問題話題作二本観る

1/29
寒中の愛の映画に涙する

1/30
芭蕉追ひ寒日和に立つ青葉城

東北を救へシャベルで雪をかく

伊達公のお膝元で牛タン寒ランチ

寒梅は未だ仙台の天満宮

寒夕日茜の仙台東照宮

1/31
新しきトースター届く睦月晦日

 


一日一句 186に続く

 https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2024/03/26/082704
 
一日一句 目次 1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/02/07/092704

一日一句 目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/05/29/195328